箱根駅伝 専門メディア第103回大会 2027年1月2日・3日

歴史

1920年、第1回大会はどう始まったのか:金栗四三と「四大校駅伝競走」

ストックホルム五輪の挫折から8年。金栗四三らが構想した大学駅伝は、4校の参加で1920年2月に幕を開けた。

目次
  1. 出発点はストックホルムでの挫折
  2. 東海道駅伝という「原型」
  3. 3人の会話から生まれた構想
  4. なぜ2月の午後だったのか
  5. 雪とたいまつの箱根路
  6. 第1回と第102回を数字で比べる
  7. その後の歩みへ

毎年1月2日に大手町を出発する箱根駅伝。その第1回大会は、今とはまったく違う季節、時刻、顔ぶれで行われました。1920年2月14日の午後1時、東京・有楽町から箱根へ向けて走り出したのは、わずか4校の学生たちです。この記事では、大会公式サイトや読売新聞、笹川スポーツ財団の資料をもとに、第1回大会が生まれるまでの経緯と当日のレースを整理します。

出発点はストックホルムでの挫折

箱根駅伝の構想の中心にいたのが金栗四三です。大会公式サイトによると、金栗は東京高等師範学校の学生だった1912年、日本が初めて参加したストックホルム五輪にマラソン代表として出場しました。しかし26.7km地点で意識を失って倒れ、途中棄権に終わります。この経験で世界との差を痛感したことが、「世界に通用するランナーを育成したい」という思いにつながったとされています。

公式サイトには、金栗が1967年に半世紀ぶりにストックホルムを訪れた際の写真も掲載されています。若き日の挫折は、その後の日本の長距離界にとって大きな意味を持つことになりました。

東海道駅伝という「原型」

もう一つの源流は、1917年の「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」です。公式サイトによれば、読売新聞社が上野で開いた博覧会の協賛行事として企画されたもので、京都・三条大橋から東京・上野不忍池までの約516kmを23区間に分け、関東と関西の2チームが3日間、昼夜兼行でたすきをつなぎました。これが日本で最初の駅伝とされ、「駅伝」という名称も、このとき神宮皇學館の武田千代三郎館長が、古代の駅制の「駅馬」「伝馬」にちなんで名付けたと紹介されています。

1912ストックホルム五輪金栗四三がマラソン代表として出場、途中棄権1917東海道駅伝京都三条大橋〜上野不忍池 約516km・23区間1920第1回大会四大校駅伝競走。東京高師が優勝1943第22回大会戦時下で開催1947第23回大会戦後の再開1987生中継開始日本テレビが全区間の生中継を実現2024第100回大会記念大会として23校が出場2026第102回大会青山学院大学が10時間37分34秒の大会新
1912ストックホルム五輪金栗四三がマラソン代表として出場、途中棄権1917東海道駅伝京都三条大橋〜上野不忍池 約516km・23区間1920第1回大会四大校駅伝競走。東京高師が優勝1943第22回大会戦時下で開催1947第23回大会戦後の再開1987生中継開始日本テレビが全区間の生中継を実現2024第100回大会記念大会として23校が出場2026第102回大会青山学院大学が10時間37分34秒の大会新
ストックホルム五輪から現在までの主な出来事。第1回大会は東海道駅伝の3年後に開かれた(大会公式サイトほかをもとにVoxlynest編集部作成)

3人の会話から生まれた構想

公式サイトによると、箱根駅伝の構想は1919年、運動会で審判を務めていた金栗四三、東京高師教員の野口源三郎、明治大学の学生だった沢田英一の3人の会話から生まれました。笹川スポーツ財団の資料によれば、当初はアメリカ大陸を横断する駅伝という壮大な構想もあり、その予選として東京と箱根を結ぶ駅伝が考案されたといいます。

金栗はまず報知新聞社の企画課長だった寺田瑛に協力を求め、大学や専門学校に参加を呼びかけました。これに応じたのが早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、東京高等師範学校の4校です。公式サイトは、当時は学生の数も少なく、20kmを走れる選手を10人集めることすら難しかったと紹介しています。

なぜ2月の午後だったのか

現在の大会は正月の朝に始まりますが、第1回大会は2月14日と15日でした。読売新聞が関東学生陸上競技連盟の『箱根駅伝70年史』を引いて伝えたところによると、開催時期は長距離トレーニングの効果をあげるという観点から「厳寒か酷暑」がよいとされ、最終的に厳寒の2月に決まりました。

スタートが午後1時だったのも当時ならではの事情です。往路の2月14日は土曜日で、学生は午前中に講義を受けなければなりませんでした。選手たちは丸首シャツに「金栗足袋」と呼ばれた足袋を履き、有楽町の報知新聞社前から金栗の合図でスタートしたと記録されています。

雪とたいまつの箱根路

1区の選手たちは銀座通りから品川に出て、旧東海道を鶴見へ向かいました。午後の出発だったため、小田原に着く頃には日が暮れていました。公式サイトによれば、5区では悪路と積雪の中、地元の長距離選手が伴走し、青年団がたいまつで照らすコースを進みました。笹川スポーツ財団の資料は、箱根への到着が午後8時半を回ったと伝えています。

夜明けの富士山と山並みを背に、山道を走るランナーたちのイラスト
第1回大会の5区は夜の山道だった。現在の大会は昼前後に山上りが行われる(イラスト:Voxlynest編集部)

往路を制したのは明治大学でした。翌15日の復路、箱根は大雪に見舞われましたが、各校は前日の到着順にスタートします。明治大学は最終中継所の鶴見まで首位を守りましたが、最終10区で2位につけていた東京高等師範学校の茂木善作選手が明治大学をとらえ、東京高師が逆転で初代の優勝校となりました。日本テレビの歴代優勝校一覧によると、総合記録は15時間05分16秒、往路優勝は明治大学(7時間30分36秒)、復路優勝は東京高師(7時間26分13秒)です。

開催日
1920年2月14日・15日
出場校
早大・慶大・明大・東京高師
総合優勝
東京高師 15:05:16
往路優勝
明治大学 7:30:36

第1回と第102回を数字で比べる

第1回大会の出場は4校でしたが、現在はシード校10校、予選会を通過した10校、関東学生連合の21チームが出場します。公式サイトによると、現在のコースは読売新聞社前から芦ノ湖までの往路5区間107.5km、復路5区間109.6kmの合計217.1kmです。第1回大会の総合記録15時間05分16秒に対し、第102回大会で青山学院大学が出した大会記録は10時間37分34秒でした。出発も、講義を終えた土曜の午後1時から、正月2日の朝へと変わっています。

往路 107.5km →← 復路 109.6km大手町1区/10区鶴見2区/9区戸塚3区/8区平塚4区/7区小田原5区/6区国道1号最高地点 約874m芦ノ湖※ 距離の比率・標高は概略
往路 107.5km →← 復路 109.6km大手町1区10区鶴見2区9区戸塚3区8区平塚4区7区小田原5・6区最高地点 約874m芦ノ湖※ 距離の比率・標高は概略
現在のコース概略。第1回大会は有楽町の報知新聞社前を出発したが、東京と箱根の山を往復する骨格は当時から変わらない(大会公式サイトをもとにVoxlynest編集部作成、距離の比率は概略)

変わっていないものもあります。10人がそれぞれの区間を走り、たすきを次の走者に渡すという形式、そして東京と箱根を往復する構成です。公式サイトは、箱根駅伝が大会スタート当初から学生を中心に運営されてきたことも紹介しています。主催する関東学生陸上競技連盟には加盟各大学から常任幹事が選ばれ、予選を通過できなかった大学の学生も、正月には補助員として大会を支えています。

2本の腕の間を赤い襷が渡っていく様子を大きく描いた図案
第1回大会から、10人がたすきをつないで東京と箱根を往復する形式は変わっていない(イラスト:Voxlynest編集部)

その後の歩みへ

公式サイトによると、第1回大会で優勝を決めた茂木善作選手は、同じ1920年のアントワープ五輪にマラソンで出場しました。箱根駅伝が始まったその年に、出場選手が五輪の舞台に立ったことになります。公式サイトは、アントワープ五輪から2016年のリオデジャネイロ五輪までに、箱根駅伝の出場経験者から76人が五輪代表になったと紹介しています。

主催は1919年に創設された全国学生陸上競技連合から、関西学生陸上競技連盟の創設を経て関東学生陸上競技連盟に引き継がれ、現在に至ります(笹川スポーツ財団の資料による)。

参考資料

  1. 箱根駅伝とは(概要・歴史・豆知識)(東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト)
  2. 箱根駅伝第1回大会は「厳寒か酷暑か」で2月に開催、選手は講義を終えた午後にスタート(読売新聞オンライン)
  3. 【箱根駅伝の歴史】箱根駅伝とは「なにもの」か(笹川スポーツ財団)
  4. 歴代優勝校(日本テレビ 箱根駅伝番組公式サイト)
  5. 過去の記録 大会詳細:第102回大会 2026年(東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト)

記録は大会公式サイト「過去の記録」に基づきます。

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